「現代における東洋美術の伝統」 第三章 力動的形構成とその空間配列

1996 筑波大学修士論文

目次

第三章 力動的形構成とその空間配列

森羅萬象の自然界は、それぞれ形をもち限界をもっている。われわれが、その形の限界によって束縛され、拘束する。その自然の形の拘束の中で、われわれが生きながら、それに縛られることなく、自分に自分が変わるーー拘束を超越するーーことによって真の自由を求める。東洋伝統美術にとって、自然との拘束から超越するのは、画家の真の目標である。

 東洋では、絵画に描かれた形はある意味で言うと(「八卦」からの影響)抽象的、象徴的な言語と言ってもいいすぎではない。ようするに、絵画に現れた形の外観を描出することは、基本には違いないが、画家の真の目標ではない。(古代中国の宇宙論における「八卦」とは、すべての現象が記号化され、その相互の関係が決定されるものである。)それは自然からの「脱出」「超越」とみていいだろう。

形は目でとらえたものの本質の特徴のひとつである。三次元の物体は二次元の表面で境界づけられる。二次元の表面は一次元の境、例えば、線で境界づけられる。ものの外側の境界、つまり、輪郭線は感覚によって、支障なくさぐることができる。ルネサンスによってつくられた西洋の絵画様式は、形を一定の視点から見られたものに限ろうとした。それは自然を征服する西洋的な観念にしたがうものと考えられ、明暗法や、透視法等、自然の拘束からの脱出ではなく、この拘束を征服することを意味するものだと思う。

 東洋では(東洋だけではなく、エジプト人。アメリカ・インディアン、現代における立体派の画家たちも)そういう制限を無視する。つまり東洋の伝統絵画に現れていた形、或いは、山形、岩石、川、樹木、花草等は、再構造された「形」である。美術評論家有川文夫氏は、山本丘人の《夕焼け山水》について、このように語った。

「画家か自分の絵の中に、ある普遍的な自然を描き出したということは、科学者がひとつの物理学上の法則を発見したのと同等の意義を持っている。厖大で錯綜した自然に整然とした秩序を与える。それはひとつの視覚的法則、ひとつの思想を手に入れたということなのだ。山本丘人という画家は「夕焼け山水」において、そういう仕事を実現したのである。」*46

 この再構成された「形」はどうつくられているか、また、このつくられた形は、画面的空間配列にどう慟いたのか。東洋の伝統絵画にも趣味が深いものである。
「例えば、目の前にひとつの山かおるとして、これを絵にする場合、どんなに山の形を克明に写したところで、その実感は得られない。写真に撮られた山の姿は、実物に比べて、たいそうちっぽけなものに目に映る。形は正確でも、量を失っているからだ。といって、そのままの量を持ってくるわけにもいかないから、画家たちはさまざまな工夫を画面に凝らすのである。どんな画家も、山の稜線を描くのに、分度器で測って描きはしない。ときには強引な変形をさえ敢えて行う。つまり、彼らは自分の絵の中に、なにひとつ失いたくないのだ。量も、質も、そして感動までも。ただし、対象を本物そっくりに描かんがためではない。まさしく本物を描くためである。」*47
有川文夫

再構造された「形」は、画家の目のから心、心から手、手から筆、画面という過程を経過してこそ、いわゆる「本物」となる。つまり「胸中の丘壑」である。
 「視覚的な形はすべて力動的である」と、主張したアルンハイムが、知覚体験(移動)は「直接に見えるものに内在する固有の知覚現象なのである」と指摘した。私はこの「胸中のと丘壑」の構造は、「力的抗衡」即ち「力のバランス」という存在であると考えている。「力動的形」の構造は、東洋の伝統絵画の形の基本構造の要因である。雄大で安定した山の形態は、平穏に感じられるのは表面であるが、しかし、宇宙的な立場で見ると、それは一瞬にできたものとみえるのだ。上高地の大正池で焼岳をスケッチしたとき、見る見るうちに焼岳の火山爆発の瞬間的な力が、目の前に印象強く現れてきた。火山が暴れた突起の面とその亀裂の間に、山肌の生々しさ、巨大なエネルギーを与えられたのである。
 生物にとっては、すべて、力のバランスをよく取って生長し続けている。山もそうだが、斜めの樹木も、絶壁でいきている蘭も、この形自身に、力動的形で構造されたものである。東洋絵画には、この物の形に内在する力動的な構造を顕在し、観客に同構な視覚体験を喚起させる「胸中の丘壑」は、こんなものではないだろうかと私は想像する。

「皴」により力動的にさせた形の内面

 「皴法」は、中国伝統山水画にある独特の技法である。主に使われたのは山の肌、岩石の紋または、樹木の質感の表現等である。輪郭線より、ややはっきりしないような「線的」(枯れていた墨線)に見える。筆の動きによる方向や、濃、淡、乾、湿の変化等で気の介在や遠近の関係も表現できる。画面の構造を全体的に統一すること等、山水画は「皴法」で描くことで成立したと思われ、これは西洋絵画にはないものである。
  「皴法」は、現代芸術の視覚分析によると、一つの簡潔方法であることはほぼ認められている。われわれは渾沌的パノラマのような大自然を目前にして、起伏盤亘の山形、多彩多変の岩肌、雑乱繁茂の樹林で満たされている。これを絵にするなら、省略しなければならない。それで、古代中国人は一つの表現手段として皴をつくったのである。曾つて、スピノザ(Spinoza)は、秩序についてこのような言葉を残した。「事物が感覚によって示されたとき、それを想像することが容易で、したがって憶えやすいときには、われわれはその秩序がととのっているといい、反対の場合には、秩序がわるいとか、混乱しているとかいうからだ」*48  アルンハイムは、スピノザのこの言葉は、簡潔にも応用すると指摘した。簡潔という言葉は、芸術の世界において、もっとも重要な意味を表している。簡単な手段で画面全体を簡潔にさせるのは、発達した芸術様式にはあてはまらない。芸術的な簡潔とは、実に非常に複雑なのである。

 現代芸術の視覚分析によると「簡潔であるかどうかは、現像が観察者の体験のうちに引き起こす緊張度である」と定義する。また「それに相応して脳髄過程の緊張度である」と定義する。*49

  「皴」でかかれた山形や岩肌等は分かりやすく、想起が容易で、観客に観照できる効果があった。また、それらの質感を表現するだけではなく、山脈を描きだし、山形の「力構」にも深くかかわった適切な表現力は、驚くほど評価されたのである。バアト(Kurt Badt)は、芸術の簡潔さをこのように定義している。「本質的なものを洞察して、それ以外のものを本質的なものにしたがわせる、もっともかしこい秩序づけの方法である」*50 と。私は「皴」は、山水の本質を語られる一つの東洋的な表現と考える。「皴」は形をつくる、質感をだす、山の存在感や、量感重さ、陰陽(明暗)も表現する。また画面の空間構成にも参与するというようなはたらきがある。西洋的な絵画要素として分類したら、「皴」は点であり、線であり、面でもある。「皴法」は「線的でありながら面的であり、面的でありながら線的である、といった線と面の中間的性格をもっている」*51 立体を表現する線描法である。  「皴法」は表現手段それじたいの成長、成熟、発展とつながり、皺の「内含性」がどんどん広がっていく。初期では輪郭線に従って、やや陰影にあたるところか、または山形、岩肌の質感を表現したにすぎない。それは、唐の中、晩期から宋にかけて、また、元、明、清各朝代の美術の風格、各画家の努力と、皴に対しての理解や発揮によって、成熟、発達し、結果は東洋美術に対してなくてはならない存在になった。ここで、この初期の皴の表現と、この後いろいろ発達してきた皴を図で分析していくこととする。
 図38 a.b.c.d.e


 aにあるのは隋・展子虔の《游春図》である。山の稜郭、石、樹枝、屋宇等、輪郭線が、はっきりと描かれて、またぼかしと平塗もあるが、皺法はまだ見えないようである。
 bにあるのは唐・孫位の《高逸図巻》(部分)である。人物が主題として描かれたが、文士四人の間に、芭蕉、雑樹、湖石も描かれた。この湖石の皴が上手で、円熟していたと見られる。
 cにあるのは宋・范寛の《雪山蕭寺図》である。後世「雨点皺」と言われ、輪郭線は強く描き出し、皴はそれにしたがって山肌を描き出したのである。
 dにあるのは元・倪瓉の《怪石叢篁図》である。輪郭線を淡化されたのはよくみえる。折帯皴で描かれた山形、岩石は、はっきりしないような自由さが印象的で、物形固体性が崩壊したのである。皴自身は、山の形をつくって、平淡で深幽なる画面である。
 eにあるのは元・王蒙の《太白山図巻》である。牛毛皴(またぱ巻雲皴)で山形、岩肌を描いた。輪郭線と皴の線形は等質的であり、錯乱し、ラッシュアワー的な感じが画面全体に充満しているようである。



以上図38 a.b.c.d.eの順で示した通り、皴法は、山水画の始めから石や、山肌等の質感を表現する簡潔な技法として、徐々に発達してきたものとみえる。そのうち皴は、独自なる図形(山や石等)の構造へと変わりつづけ、輪郭線とほぼ等価的になっていく。図形の内面(山や石形の内面)に力動的な動勢をつくりだしたのである。つまり形の内面構造を力動的にさせ、図形自身が動くような構造に働きかけるということである。

 皴法は、図形の内面にどのような動きを起こしたのか。明暗法や幾何的透視法は通用しない東洋山水画の山や石の図形は、二次元の平面であること。


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 図39 a.b. c. のaは不等辺の多辺形体である。この多辺の平面図形に、皴を入れて見てみる。皴は、線のようにそれぞれに変化しながら進路にそって運動を展開する。これは、あらゆる皴のもっとも基本的な力動的特質である。(皴の配列骨格を形で描く)そして、bは石の表面に波のような起伏が現われる。 cは、皴の入った後に石の表面起伏や、前から奥へ、力動的な骨格軸が現われ、形になんらかの方向に迫るものがあるように緊張を起こした。それと同時にこの二次元の形は、三次元への変身も起こした。

図40a.b.c。bはaの図形が隠蔵していた構造を分解した図である。aはこのような1.2.3.と方向が不同の面の重なり合いで、組み立てられたものにみえる。この1.2.3 の方向の視覚的要因が違うのはわかる。このような、内面構造の方向性の違いは、皴によって描き出され、山水画の山や石等の図形の生き生きとした力的抗衡 が生じ、つまり、二次元の手段によって視覚的概念の構造的本質をあらわす。1と2と3は意識的にと斜めに置くと強い力動的な効果をうみだす。これは現代芸術の中の立体派や表現派の画家達が、垂直な建物や山や木を斜めにかくことと同じで、風景にはげしい生命をあたえたことと異曲同工のことである。
 図40aの図形の内部にしばしば斜めにむいた1.2.3があって、それらもまた部分的な準拠のワクになっているが、このワクをcのように別々に釣り出して、各自が持つ方向性が現われる。なぜこのような方向性の相異なものを重なり合わせたら力動的な図形の構造ができるのか、実に「脳髄の場にはひとつの方向が支配しているらしい。それはわれわれが垂直とよぶものにあたる。」*52

 「垂直線の方向は重力の方向と一致するために、物理的空間のなかできわたっていることは無視できない。またその方向のなかで、重力は運動方向のアンシンメトリーをつくっていることも無視できない。上昇は重力の方向に反し、下降は重力の方向に一致する。それゆえ、この現象は視覚機制に内在する特性によるよりは、物理的世界に関するわれわれの観察によるのかも知れない。」*53
 一つの図形の内部に、多数の方向が現れると、垂直の支配的な土台が崩れ、各方向性を持つ面は、互いの「力の抗衡」の現像を生じる。その「力の抗衡」は、力動的なる根本である。その結果としては、支配的な軸が曲線のようになる。(図40 aの点線) 東洋の伝統絵画には、絶対的な垂直線が描かれたれたものは、あまりみつけられない。その原因の一つは、絶対的な垂直線と、「力の抗衡」の線と形は、不相容的である。(界画のような直線は、あくまで生命感の「辻入」はでない)。力動的にさせた形の内面構造は、それはかつての東洋の画家達か、図形を楽しみにつくる意味の全部である。これがわかれば、《信貴山縁起絵巻物》の大仏殿の階段を表現した線が、なぜ垂直的界画な線にしないのかわかるだろう。
 山、石の図形にはもちろんのこと、樹木にもこのような力動的運動視覚を樹幹に持たせられたのである。樹幹の皴はこのように動きがあった。 図41aのように、樹幹は、ただ円錐全体(西洋明暗法による図 bのような)ではなく、樹幹は、ねじって。力の変化、旋盤しながら、空へ生長していく力動的な形にほかならない。


「皴法」により力動的にさせた形の内面構造は、つくり出したものとみてもいいがしかし、それでも自然にあるものと私は考える。自然からみつけ、それを強調し、誇張した構造方法である。北宗山水の代表的皴法「斧劈皴」と、南宗山水の代表的皴法「披麻皴」を不同なる地点、自然環境、山の質感の相違で視覚的な図形の映像からの体験も大分違うが、しかし狐本的な構造法、つまり「力の抗衡」は変っていないのである。


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図42、斧劈皴は、大斧劈、小斧劈の二つに分けることができる、それは北方系といわれる厳しい自然のもとに育った北宗山水画に、主に使われた姚法である。硬い毛(狼や兎等の毛)でつくった筆と側筆の運筆方法で描きだされた。岩石不変の硬い本質、塊量感と、その力で彫りつくったような岩肌、力動的な形の内面は、この皴による塊面と塊面の組み合せで岩石の内面に持つ、不思議な力感を現わす。


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図42
 披麻皺は、麻の皮をほぐしたような筆皴と言われ、長披麻、短技麻と二つにわけであるが、実際に描くときは、両方交替して使うことが多い、披麻皴は斧劈皴のような鋭い強力的な輪郭線がはっきりした塊面処理とは違い、ゆるやかに自然と融合して、穏やかで、中国南方の、まる味を帯びた山岳を対象にし成立した皴法であった、それによる技麻皴には、空間意識の具休性が沈潜し、力動的にさせた形の内面は隠々として不明で、複雑な構造である皴法と思う、しかも観者によって違いがある、図43


力動的にさせた形の内面における「力の抗衡」である。その「力」は筆の運びにより「皴」を描いたと同時に生まれ、「力構」を顕現するという構造構成が自然に成立する。「皴法」といったら、古い保守的な東洋伝統と考えている人が多いと思うが、しかし、私は、昔から束洋にある独特の「力」的な構造を再認識した上で、現代の東洋絵画に大きく役立つと考えつつ、これからも、制作に意識的に取り入れようと努力していくつもりである、ここで、私の大学院在学中に「皴」の現代における試みとして描いた人体デッサン、図44を例にして、この節を終りにする。

楔形のクレッセンド視覚効果と形の組合せ

二次元の動かない形態における方向のある緊張、この理想的な様式について、アルンハイムはこのように語った。

「長方形や一様な線における運動はつよくない。おそらくそれは形がシンメトリーで、バランスがとれているからだ。くさびや三角形の主軸には、そうしたシンメトリーはない。ここでは目はひろい端とせまい端のあいだを往来する。力学的には、くさび形はひろさのクレッセンドまたは、デクレッセンドをあらわしている。これは、あらゆる知覚的勾配が運動をつくるという、一般法則の最初の例である。」岑54

楔形は方向性を持つ、正方形ほどあいまいではなく、運動は好んで尖端のほうにむいている。それは矢の効果をうみだすのである。視知覚のさまざまの形態には、こんなにすぐれた楔形を、東洋伝統美術作品に現われた形にあてはめてしまうと、あまりにも驚くべきであった。図45 a.b.c.d参照。

a《匡盧図軸》五代・荊浩
b《龍宿郊民図軸》五代・董源
c《渓山行旅図軸》宋・范寛
d《秋山間道図軸》宋・巨然


図形の視覚映像に現われた楔形の構造は、古代の画家達の意識的構造とは言えないが、無意識的自然に楔形の形に似たようになったとも言えない。「経営位置」による山形、岩形の組み立てに、自然と同構のような山水画をつくるのは、楔形の働きがあるのは、事実であると私は思う。
 楔形は一つ一つ単独的な存在ではなく、いくつかの楔形を互いに組み合せて、一つの山、一つの峰を構成させる。幾何学とあまりにも無縁の東洋では、西洋人のように幾何的な直線で楔形をしめすのは、私の説明が便利なためで仮になったものである。ここで、范寛の《雪山蕭寺図軸》を例にして、仮りの楔形構造を図面で説明する。図46 A.B。
 楔形では、力学的によると、ひろさのクレッセンドの特徴を持つ、それを視覚的に換ると、観者の目は、ひろい端からせまい端への透導的引力があった。例えば、手足や樹木の枝は胴から外のほうに動くようにみえる、等。范寛の《雪山蕭寺図軸》の分解図による、岩石山形の形は、ほとんど楔形に当たる。Aは、a.b.c.dといくつか楔形を合わせ、重畳して複合的なる視覚図形の構造である。a.b.c.d各部の下は広く、また、方向の違いによる、先端への動く傾向が変化しながら強くしている。


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 Bの場合はもっと複雑な構成である。例えば、aからb.c.dへの各楔形の重なりは、輪郭線に隠没され、楔形の組立ては微妙で、それとほぼ垂直的に見える山脈の存在(Bの山脈)に関係があるかも知れない。
 中国山水画の山形、岩石を表現するとしての楔形構造と、この組立ては画面の奥行き、単に距離を示す静かな山形、石塊の集合として知覚されるだけではなく、それは観者から無限の彼方へ導く、方向づけられた行動の次元として知覚されるのである。 以上の図解分析に、われわれ山水画の山形、岩石の襖形重なり合いの構造には、山水画に「永恒なる」生命力の源泉、根本があることがわかってきた。ようするに、現実と似たように描かれなかった東洋山水画に、なぜ、現実の「山水の精神」を照応できるのか、なぜ、山水の形に永恒なる生命力を持っているのか、なぜ、静けさである冷たい山形岩肌に動いている動的な感覚を観者に与えるのか。

元・明・清朝に渡ってきた山水画家達は、この樹形の重なり合い構造が皴法によって隠没し、或いはもっと面白くつくるとか、を行なってきた。范寛のような山の輪郭線をはっきり示したものより、朦朧的で印象的になった。ここで注目したいのは、元朝の画家で、中国山水画に最も偉大な独創吐を持つ倪瓉である。彼の折帯皴により描かれた山形石塊には、形体の互いの浸透、重畳、この楔形の重なり合いの構造が筆の運びにより、完全に隠没され、ある意味でいうと、楔形のクレッセンド視覚効果を、新しい意義で転換したのである。
 以上に述べた通り、楔形の構造は、広い一方(下の方に)と、狭い一方(先端上にある)で、それらを構成する最低条件は、二本の一次元の線である。范寛の例に見ると、山形岩石の輪郭線によって、この線ははっきりとして顕現、楔形の重なり合いを観照できるようになったと思うが、倪瓉の場合は、輪郭線の模糊、朦朧に、物形の固体性破れ、特に山形の内面構造、楔形の重なり合い、山石個各部分の集合を掲示せず、薄めたり、弱めたりし、渾沌とした自然を、渾沌とした表現により芸術化した。倪瓉が独創した皴法は後世の人に「折帯皴」とよばれた。

折帯皴によると、物は(山、石)描き出しても、しなくとも形に拘らず、形にみえてくるのである「忘山」的な境界である、(描くものを忘れて描く)渇筆、中・淡墨で、横引へと、細いやや枯れた線形かおり、そして側筆でやや幅がある筆使いでつづけて直下する。図47の通り。しっかりした物形の界線(輪郭線)は朦朧的にさせる。「折帯皴」にとって重要なのは、自然の形体(山、石)を語るのと違い、現実にある山、石の本質を描き出すこととは完全に脱離した。純粋な自由自在の皴的な構造や、皴の遊びへの転化と私は考える。
この純粋な構造は、一つの石、一つの山、一つの山石組みに拘らず、あるリズムによって、横細直太の「皴」を描きだすことにより、絵画としての「形」が生まれてくるのである。筆致が当たるところは、ある石に見える、ある山にみえるのである。まるで線の太、細参差、網状交錯の交響曲のように感じる。

 倪瓉の「折帯皺」より、描かれた「純絵画的」山、石には、もうひとつ興味深い事がある。それは山、石互い交錯、あるいは形の浸透より生まれた「透明」である。アルンハイムは《美術と視覚》の<形式>の章に物形互いの浸透、即ち「透明」について、このように述べた。
 投影写実主義の自由は投影の規則によって許された範囲にとどまっていた。戯画か空想画ならいざ知らず、比例や大きさを変えるようなことはすくなかった。とくに、おかすべからざる原則がふたつあった。ひとつは重複に関係したもので、もうひとつは投影面に関したものであった。

 まえに述べたように、重複はあたらしい空間次元を導入し、ふたつ以上のものが同じ場所に存在することを可能にした。だがしかし、投影面におけるこの共在は、奥行きにおける厳重な分類によって帳消しになった。ひとつのものが明らかにもうひとつのものの前になければならなかった。 図48 a これは技術的には重複が透明を表現しようとするのでないかぎり、一面的でなければならないことを物語っている。近代絵画はこの制限を撤廃した。それは相互的重なり合いをつくった。図48 b ひとつの同じ領域が逆説的にふたつ以上のものに属することになった。かくして、はっきりきめられた年来の所有権が破壊された。同じたそがれのあいまいさは、伝統的な支配服従の階層をも払拭いた。もはやひとつの単位が断片でうしろのほうに存在するのではない。両方とも全体であると同時に断片であり、前方にあると同時に後方にある。どちらの解決がよいというのでもない。
一方が他方と交際するために支払うべき代価はもはや明瞭ではない。完成が強調されながら、完全がおびやかされることは否定できない。だれがだれをおびやかすのかという問題は、どこまでも解決されはしない。相互浸透はまた物の固体性を破壊した。図48が示すように、未完成は固体性を維持するが(a)完成はそれを破壊するという逆説を、重なりあいは意味している。かくして絵にかかれたものは、幽霊のように透明になった。それは物体であるよりは、精神の所産であるとおもわれる。実在は作り話にすぎないという疑いは、ときたま発展して、すべての映像は主観的起源をもつという大胆な主張になった。*63

相互浸透は、物形の固体性を破壊した、それは重なり合いが透明を表現するために現われた視覚映像である。互いの依存的存在、互いとも全体であると同時に断片であり、倪瓉の折帯皺より造形、図49 b と披麻皴より造形、図49 a を比べたらわかる。


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 折帯皴による表現は、たしかにアルンハイムの説で語った透明的な重なり合いに近いもの、しかも前に述べた楔形的重なり合いの骨格的存在が、ある程度残っている。それでも画家の内心にある、筆の運びの際に自然に流れている。また、西洋の現代芸術と違っているのは、視覚を完全に錯覚させるのではなく、錯覚を起こさせると同時にもとに(石形、山形)もどられるような「変相還元」であった。それでも、折帯皴が暗示された物形固体性を破壊させよう。相互浸透による形と形の支配に服従廿ず、東洋絵画の伝統は現代におけるもっとも深い意義を持つ一つの例である。

 二のような重複が「透明」を表現しようとする例は、大和絵の代表的作品《源氏物語絵巻物》にもあった。初めて、この第三十九帖「夕霧」、図50 の袖の線を見たときある不思議さを感じた。五島美術館で本物を見た後、この「下書」のような線は、完全に袖の[力的構成」に参与したと確信した。その線の交錯による前後なしの構成は、わが東洋に共有した伝統であり、感銘した。それにより現代における東洋絵画に何かできるのか、と私は思ったのである。


図50《源氏物語絵巻》第三十九帖夕霧より(部分)

「無形之形」とその空間演出

「無形之形」は老子の「大象無形」から派生した言葉と思うが、「白馬非馬」という哲学の論題と同じく、一般と特殊、普通と個別、弁証法により理解しなければならない。
 「無形之形」は「大象無形」の「形」である。定義通りにしたら無形之形は、形を超越した存在である。ここでは造形芸術におけるこの「形」を考る。「形」が生じるのは(現われるのは)ある空間(場所)、ある時間(例えば春か夏か)に変りつつある変形であり、絵画に描かれる「形」は「常形」であることと、中国美術教育家呂鳳子氏は述べた。*55(一筆画便是以創作常形為本務的)変っている形は常理を示す。この常理を把握できたら常形は始めて作られる。つまり、われわれがいつも大自然から見た物形の変形を絵画のなかに「常形」にする。その規則というのは変形(自然形)に損益はない。しかも本質の現われる一種の「変相還元」である。

私は、呂鳳子氏の言った言葉が、中国絵画における「形」の成立の源と思うが、ここでの「形」とは、画面の空間に対して、ある山、ある岩石、ある樹木と考え、それらの「無形之形」とその空間演出における扮装の役に限って述べている。東洋絵画の伝統ある造形様式といえば、まず《芥子園画伝》が思い浮かんでくる。《芥子園画伝》は1676年に初版が発行されて以来、320年もたった。曾つて、画家や画学生を対象としたマニュアルとして編集されたものであったが、実は、絵のなかで実際に使われ公認された表現形式の言語を集大成したものであると同時に、これらの表現形式を絵のなかで使い、組み合わせるうえで、基準とすべき原則を定めた「文法書」の役目も果たしていたのである。マイケル・サリヴァン著《中国山水画の誕生》に以下の通り《芥子園画伝》を評価した。

《芥子園画伝》は、「中国絵画の堕落した状態を証明するものである、と見られること、しばしばであった(私も含めて)。絵を描くのに書物から学んで疑いなく霊感が死んでしまったことの証明だといわれてきた。しかし、それならば、ベートーベンのソナタを研究する作曲家や、自分以外の作曲家の作品を演奏するピアニストは、真の芸術家ではないということにならないだろうか。こういう見方をしたのは、中国人の絵画観を誤解することになるだろう。なぜなら、中国人の芸術家にとって、独創性そのものは何の意味ももたないからである。もっとも大切なのは、精神を表現することであり、そのためには、まず絵画の表現手段と、基本的原則とを完全に身につけていなければならないのだ。(芥子園画伝》は、霊感の代わりを果たすものではない(霊感のない者を別にして)が、霊感をあますところなく表現するうえでの、助けとなるものだ。」*56

精神を表現する東洋絵画には、形が精神よりしたがうものであった。「秋の雲を見上げていると、秋の精神は翼が生えたように高く飛ぶ。春の風にからだをゆだねていると、私の思いはあふれ出るように外にたゆたう」。(望秋雲。神飛揚。臨春風。思浩蕩)‥‥‥ ああ自然をわがたなごころのなかにめぐらせるだけで、絵が描けるものだろうか。ここでもまた神明が降りてこなければならないのだ。なぜなら、それが絵画というものだからである。(嗚呼。豈独運諸指掌。亦以明神降之。此画之情也。〈叙画〉王微著)*57 《芥子園画伝》にある樹木表現の様式、石と石の組み立てそれはすべて、各モチーフとして、言語の意味を持ちながら、しかも、一種の修煉である。この修煉は対象の形のさまざまな現れたかたちから、本質的な部分を抽出し様式化したものを再体験するという学習である。樹木なら樹木の修煉、この修煉により樹木にある永恒的な精神であるもの、(規律性による一般的なるもの、普通性であるもの)を見つけ、覚え、身につける。私は《芥子園画伝》のような教科書は、形を教えてくれるだけではなく、この形から、この形の内面にある詩的な意をみつけることの修煉、つまり、形にある精神的存在をおぼえ、身につけるものであると思う。例えば、雑樹部分に「二本分離しているとき」(二株分形)「大樹に加え小樹、負老の意」(一大加小、是為負老)「二本交錯しているとき」(二株交形)「前に小樹後に加え大樹、これは老樹が幼い子をつれているの意」(一小加大、是為携幼。)「樹木は人の群れと同じく、互いに挨拶したり、目を待ち望むような情致を交換したり、(如人之聚立。互相顧盼)図51それは、西洋絵画の技法書と違い、物の内面にある精神をみつける方法を教えてくれるのである。そこで、模写しながらこの意をくみながら、対象の本質、或いは永恒なるものを捉えるのである。


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このような修煉をくりかえしながら、普遍の形へ把握に近づくと、どんな形でもつくられるようになる。つまり、ある「不変の形」を身につけ、「変の形」がいくつでもつくられるのだ。それから、各モチーフの持つ「変の形」が、画面空間演出に演じる役として、分担され、そこで始めて絵画にある視覚化し得る決定的な「形」を見出すのである。(〈芥子園画伝〉の中にある樹形、石形をそのまま写すのではなく、樹形が演じる役によってつくるのである)私は「無形之形」と言う形は、普遍性を持つ、一般的な「形」を意味すると思う。つまり学校のどこの庭にある本の形というのではなく、世の中のすべての「木」の形とした。このすべての「本」は、不変であり、永恒であり、すべての木の特徴、本質を示す「木」である。李沢厚氏は、中国漢字についての「<中国語のもつ>総体的かつ系統的な理性秩序を明確に示すと同時に、<物を以て物を観る>こと、すなわち時空を超え、認知を超え、理論を超えて、没主観的・客観的に事物と世界を把握、あるいは表現することを容易にする」*58ことは《芥子園画伝》の言語的な功能にも適用すると考えている。《芥子園画伝》が教えてくれた樹木は狭い意味では言語的、単詞的であるが、広い意味では本を超えた、没主観的・客観的の本質である。いったんこのような修煉ができたら、画面空間演出の舞台に、どんな役の木でもつくられるのだ。

 画家は映画監督のような支配者である。この画面の空間舞台で特定された限りに、どんな樹木、山形、土、石、とそれらの配列組織に、春なら春の枝、秋なら秋の朽木等、自由自在に形をつくれるのには、すべての形を越えなければならない。それが「無形之形」というものである。  次に、この「無形之形」とその空間演出の関係について述べる。私かアルンハイムの《美術と視覚》の本を始めて読んだのは、1985年であった。その後日本に留学し、武蔵野美術大学に入学して、佐野みどり先生の日本美術史の講義を授講したのが1990年の春で、雪舟の〈四季花鳥図〉屏風との出合いもその時期であった。アルンハイムに「正方形にかくれた構造」と雪舟の《四季花鳥図》と結びつけるとき、東洋的「無形之形」とその空間演出に面白い発想が起きたのである。ここで、アルンハイムの《美術と視覚》から第一章の第一「正方形にはかくれた構造がある」の一部を以下に引用する。


図52


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正方形にはかくれた構造がある。
 黒いボール紙をまるく切り抜いて、白い正方形の上に図52 a のように載せてごらんなさい。 ‥‥‥ 円板は中心からずれていることが計算でわかる。……はからなくたっていい。円板が中心からずれていることぐらいみればす。。。。。。。。ぐわかる。‥‥‥われわれはいつも物事をまわりのものと関係させて述べるのが常である。‥‥‥いいかえれば、見るというはたらきは、すべて視覚的に判断するということである。ときとすると、判断は知能の専有物のように考えられることがあるが、しかし、視覚的判断は視覚に知能があとがら加わったものではない。判断は見るはたらきそのものの、直接的な必須の成分なのだ。円板が中心からはずれているごとを見るはたらきは、円板を見ることの本質的部分である。
 目による観察は、たんに地理的なものではない。円板をみれば、それが一定の場所をしめているだけでなく、何となく落ちつかないことがわかる。この落ちつきのなさは、円板が現在の位置から逃げようとする傾向である。もっと詳しくいえば、円板は一定の方向、例えば、中心のほうにひっぱられるような感じなのである。もちろん、円板は現在の位置にしばられているから、じっさいには動くことはできないが、それにもかかわらず、円板はまわりの正方形に対して内的緊張をみせている。この緊張はやはり知能や空想の付加物ではない。これは大きさや、位置や、黒さなどと同じように、まさしく知覚された内容である。そして緊張は大きさと方向をもっているから、心理的な「力」であるといえる。


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 正方形のような視覚図はうつろであると同時にうつろではない。中心は複雑なかくれた構造の一部である。この構造は円板でさぐればわかる。ちょうど、鉄やすりでさぐれば、磁場の力線が分かるようなものだ。円板を正方形のいろいろな場所においてみると、ある場所では円板がどっしりおちついてみえ、他の場所ではどちらかの方向になびくようにみえることがわかる。この場合、円板の位置は不明確で、あやしくなる。

 円板がいちばんおちつくのは、その中心が正方形の中心に一致する場合である。図52 b をみると、円板は正方形の右辺にひっぱられるような感じである。ところがそのあいだの距離をかえると、この効果は弱まり。しまいには反対の方向にひっぱられるようにさえなる。たとえば、そのあいだの距離が「あまり近くなりすぎる」と、円板は右辺から離れたくなるらしい。あたかもそれは右辺と円板の空隙がせますぎせて、もっと「息ぬきをする」場所を求めている、といった様子である。
 調べてみると、円板は正方形のまんなかの垂直線と水平線からなる十字形によって影響されるが、それと同じように、ふたつの対角線によっても、影響されることがわかる。図52 C 中心はこの四つのおもな骨組の交点だ。中心ほど強くはないが、線との他の点にも引力は慟いている。

……

図52 C に示したように視覚形態はじつに力の場である。この力の場にあっては線が分水嶺である。そしてエネルギーの高さは、この分水嶺から両側にゆくほど低くなる。こうした分水嶺は引力と斥力の中心であって、その影響は周囲の全領域におよんでいる。正方形の内的構造といわれるものは、――ちなみに図形の外には外的構造があるーー目にみえる図形である正方形のふちからのいろいろな力がおちあって、二次的にできたものである。*59

東洋絵画の画面空間とは、西洋に比べ、ある場所、ある屋内、壁、机、等限定されたものではなく、「無」であることは、前文の通りである。「無」は空白でもって黒円板のまわりと同じような空白である。東洋絵画の空間としての純粋さは、この空白にある。なにもない存在、それと描かれた形のこの空間への侵入は、まるで、「池に投じた石のようなものだ。それは平安をやぶり、空間をゆさぶらないではおかない。見るとは働きをみることなのだ。」 *60

 アルンハイムの説は、美と創造の心理学の基盤の上に立てられた。それは視覚分析による視知覚をどんなはたらきかけが中心で、特に、古典的西洋リアリズムより、現代芸術における「視覚形態はいつも力動的であること」を力説したものと思う。彼の別著《視覚的思考》ではこのように述べていた。

視覚が刺激材料の受動的な記録でなく、精神の能動的な営みであることを私は示してきた。視覚は選択的に働く。 *61

東洋にもこれと相同の考えがある。章学誠氏の《文史通義》内篇一<易教下>「天地自然の<象>があり、人間心営みより構成させた<象>もあり。」(有天地自然之象、有人心営構之象。*61)精神の能動的な営みと視覚はどのように結んでいるかは、雪舟の《四季花鳥画》を例にして検討していく。まえに述べた通り《芥子園画伝》の修煉によるすべての「形」を身につけられたとすれば、演出の舞台にどんな役でも「扮装」できる。樹木の基本構造が《芥子園画伝》により把握できたら、制作中、画面に能動的に、必要なる木の視覚像をつくれるのだ。過去に、東洋絵画はそのようにつくられてきたのである。雪舟の〈四季花鳥画〉屏風(左隻)図53 a も同じだと思われる。画面の左側の下に、押し退けられそうな岩は、ぎりぎりまで隅におかれ、みぎの広くあく空間に(雪山)圧迫され、その上に曲折する樹幹は盤屈をし、岩石の脱け出すのを押さえ、「息ぬきをする」場所を求めているようにみえた。この構造は、


図53 b


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正方形にかくれた構造と同理であることはわかる。また、この岩と樹幹の力的な衝突の激しさより、左下への圧迫感が強く、強くなるほど、反対方向に引っぱられるような反力構造がある。図53 b の通り。ちょうど右上に鷺が飛び込んできたのを迎えるようなドラマチックな空間構成である。これは「精神の能動的な営み」を視覚化させた例とも言えるだろう。

 形は常に「無」として把握すれば、どのような空間演出もできる。自然界にそれとそっくりの岩石と樹身を探しても無駄なことだろう。また、この「無」の形を画面構成にいろいろな「役」に扮装し、演じるし、そこで画面空間が生れる。
 東洋の伝統にある「無形之形」と、空間演出の関係が一体化していることは考えられる。形がなかったら、空間は生れない。形、また形から構成した力の抗衡、衝突が力の場をつくり上げ、その間に空間が生れる。この空間を余白とも言う。


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《扇面画帖》図54 a もまた一つの東洋の独特の形と空間演出の「力の場」の構成で
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