図形の「間」の配列と秩序

―敦煌莫高窟第217窟経変図青緑山水の解析―

論文要旨

 東洋絵画あるいは中国絵画といえば、その空間表現の由来が長らく謎のままであった。無論、我々は郭煕の提唱した「三遠法」を用いて説明できるかもしれないが、「三遠法」の理論が確立する前提として、まずは絹という支持体と墨の微粒子が支障なく山形や雲煙を暈しの技法で絹上に展開させ、空間の演出が自由自在にできることである。一方、岩彩絵画はそれと違い、材質の粒子を含む岩彩絵具が空間の幻想的な「余白」を作ることは極めて困難である。しかしながら、青緑山水が登場することによって、中国絵画の空間構造が完成されている。本稿では、敦煌莫高窟第217窟経変故事図の背景に描かれる山水表現を解析し、仏教の経変故事を借りて生まれた中国絵画における空間表現の草創期形態様式を論証することで、「間」すなわち「留白」の意識から生み出された東洋絵画の「平面絵画における空間構成」の様相を解明する。「間」を二次元平面絵画における「空間構造」の基本的な論理とすれば、ピカソやマティスの絵画を振り返って観る際に、我々は別の風景を見出せるだろう。

キーワード 岩彩、青緑山水、「間」、空間

序論

1 中国人の山水観

 中国には数多くの名山や大河があり、古来、中国人は山水での遊びを好んできた。中国人の山水観も遥か遠い昔に、すでに中国の文化思想の中に息づいていた。
中国では、雲にそびえる高い山岳は、地上の人間と天上の神々とが接触する場として崇められ、山岳のように高々とそそり立つ「台」に対しても、「台に登れば帝となる」と信じられていた。神話上、黄帝には軒轅台、共工には崑崙山に建つ台、女娲には璜台があり、それらに次ぐ帝堯台、帝嚳台、帝丹朱台、帝舜台など諸帝の台もあった。歴史上も、春秋戦国時代には斉国の恒公台、楚国の章華台、趙国の叢台、衛国の新台、秦国の穆公が建てた霊台、呉国の姑蘇台などが存在した。歴代の君主たちは高台の建造を通して、帝王の尊貴や崇高、王権の天授や天下に君臨する絶対的な権威を誇示していた。このように帝王の山水を好むのは、単なる美的享受を得るためのものではなく、一種の美学と政治・社会・倫理とが密接につながるものである。一方、道教が山水を愛でるのは、世俗を離れた深山に住んで修行するためのほかに、山水の利を生かして生活するという農耕社会の素朴な生活哲学も反映している。儒教には「仁者は山を楽しみ、知者は水を楽しむ」とあるように、仁徳や知恵といった人間の美徳を山水に投影している。また仏教では、岩山に修行僧が座禅を行うための龕や仏像を供養するための石窟を開削し、それによって仏菩薩の慈悲を表象していた。中国の知識人たちは、山川草木に対してまた別の情趣を見出している。すなわち、「仰いでは宇宙の大を観、俯しては品類の盛んなるのを察す」(王義之「蘭亭序」)、「繍闥を披いて彫甍を俯けば、山原は広々として人の視野に盈ち、川澤はうねりとして人の目を驚かす。(中略)天は高く地は遠く、宇宙の無窮を覚える」(王勃「滕王閣序」)などの詩文に示されるように、知識人たちは山水を通して胸襟を開き、堂上に坐したまま、四荒八極を見渡して山水の真意を極めるといった人文理想を持っていたのである。中国文化では、近い距離から物事の形状だけを写し取るといったような「小宇宙観」ではなく、高い山に登って上下四方と古往今来という全ての時空間を見渡すような「大宇宙観」を以て世界を理解し、さらにこの大宇宙観をもとに万物の理を体得するのである。
 山水を能く観る聖王から山水詩や田園詩を創作した文人隠者まで、石窟を開いて座禅修行する高僧から不老不死を求めて錬丹に励む道士まで、中国人の山水観は権力者から庶民ないし儒・釈・道の三教まで広く行き渡り、悠久の歴史の中で脈々と受け継がれていった。そういった山水観の具象化である山水画は、仁者が山水の形を以て「道」に親しむためのものであり、坐したり臥したりしたまま山水を眺めて「神」を暢ばすためのものである。しかしながら、山水画の表現は円熟の境地に達するまで、山々が「螺鈿の装飾や犀の角で飾った櫛のようだ。水はものを浮べられない。あるいは人は山よりも大きい。(中略)木々の連なった様子は腕を伸ばして指を開いたようだ」(張彦遠『歴代名画記』)という未熟な表現の時期を長く経ていた。

2 中国山水画の登場

 中国の山水画の登場時期については、古代の美術史文献をひもとけば、多数の記載がある。例えば早い時期の顧愷之『画雲台山記』、宗炳『画山水序』、王微『叙画』、蕭繹『山水松石格』などの記載によれば、山水画は中国南北朝時代を濫觴期とし、隋唐時代になると本格的な山水画が成立したと推測される。漢時代の画像石・画像磚や南北朝時代の墓室壁画など実物遺例の樹石表現から、初期山水画の展開の軌跡を辿れる。佛教が中国に伝来した後、宗教人物画が一時期に隆盛を極めたが、盛唐期以降は仏教の中国化や経典変相図(「経変図」と略称)の普及に伴って、宗教人物画中の付属的な自然背景として描き込まれた山水表現が次第に独立し、山水表現自体が絵画の主役になっていったのである。その中で最も注目されるのは、盛唐期の李思訓とその子の李昭道が確立した「青緑山水」である。青緑山水に関して、文献史料に詳細な記述はあるものの、実作例は伝存しない。また、模写を重ねて今日まで伝存してきた紙本、絹本の青緑山水模本は確認されているが、原本との間に大きな隔たりの存在が想像される。とはいえ、美術史の文献に名前を掲載されていない優れた民間の画師たちが中国最初期の山水画・青緑山水の最隆盛期を作ったことは容易に推想できる。敦煌壁画がまさにその証左である2
 青緑山水は大、小の二種類に大別される。大青緑山水は壁面(例えば、石窟や寺院の壁面)を支持体とし、岩絵具を媒介とし、青色や緑色などの濃彩を塗り重ねたり金箔を用いたりして制作する絵画体系をさし、現在のいわゆる「岩彩絵画」の絵画様式に相当する。他方、小青緑山水は紙本、絹本絵画が発達した以後、筆墨表現を根幹として、水墨技法による暈し表現のうえに岩絵具や金泥などを加えるという絵画様式をさす。小青緑山水画は宋から元、明、清に至るまでの各時代に制作された作品が現存し、一見して大青緑山水画とよく似通っているが、実際はこの両者の間に全体の絵画制作のプロセスや芸術表現の様式などに大きな相違が存在する。
 青緑山水は中国絵画が独自に生み出した表現様式であり、岩彩絵画の成熟期に盛んに制作されていた重要な題材である。今日伝世する紙本絹本の青緑山水模本が数少ない情報しか伝えていない状況の中で、敦煌壁画に現存している青緑山水の実例は、青緑山水の様相を知る上で極めて貴重である。また、青緑山水が創出した造形や色彩および空間構成は、さらに初期中国絵画を研究する上でも重要な材料となり、美術学界の研究者たちから大きな注目を集めている3

3 中国岩彩絵画の範疇に属する青緑山水

 中国の岩彩絵画は、石窟や寺院の壁画として確立し、発展を経て成熟に達した。岩彩絵画の重要な科目の一つである青緑山水に関しても、その構図や色彩および空間表現といった造形語彙・造形原理の萌芽を壁画から確認できる。
下文で青緑山水の空間構成の仕方を解析するが、その前に、まずは青緑山水を含む敦煌壁画が岩絵具を彩色材料とする壁画作品として、中国岩彩絵画の範疇に属することを確認しておかねばならない。つまり、青緑山水の空間構成は、本質的には岩絵具の材質が主導となっている空間構成である。具体的には、下記のような点を含んでいる。
①「質」をもつ岩絵具の色体による図形の内部
 本稿でいう「図形」とは、山岳や河川といったモチーフを造形する際に用いられる最小単位をさす。岩絵具に塗布される青緑山水の図形は、鉱物を細かく砕いで作られた粒子状の顔料という岩絵具素材の性質から、おのずと図形の「質」が規定している。すなわち、岩絵具の塗り重ねによる立体的で多層な色面構造には、岩絵具の物質的存在が含まれているのである。岩絵具の塗られた密度(色体)が生来、一種の図像意味を内包することから、「質」をもつ岩絵具の色体による図形は、その周囲の空間と区別された自らの境界を容易に確立できる。図形が「質」を失うことは、すなわちその自身を失うことと同然である。
②「質」をもつ岩絵具の色体による図形の内部とその周囲の空間
 図形はそれぞれ異なる「質」を含んでおり、周囲の空間の「質」と同一画面に共存しつつ、互いに対峙・対抗の関係をなしている。画面内に一種の「質」のバランスを保つためには、図形とその周囲の空間が同時進行し、同時発生するという空間構成の関係を保持せねばならない。
③色体の密度が異なる「非均質空間」の「虚・実」概念
 「非均質」とは、岩絵具の薄塗りや厚塗りによる色面が表す意味の相違をさす。中国伝統絵画の「虚・実」の概念を借りれば、色体の密度が高い色面は「実」、色体の密度が低い色面は「虚」と見なすことができる。図像の色面を配置して空間を構築する際に、常に「虚」と「実」の位置を変換すれば、空間変化の視覚効果をもたらすことができる。また、岩絵具の色体密度は画面内の各図形に異なる視覚的感覚を与え、図形に影響し、さらに画面の空間構造に参与する4

  • 図1

    図1
    敦煌莫高窟第217窟南壁西側の壁画

第一章 広袤で開闊な空間―空間場面の設置

 敦煌莫高窟第217窟は唐時代前期の景龍年間(701~710)、ちょうど初唐から盛唐に移行する時期に造営された石窟である。本稿では、第217窟南壁の法華経変図の一部として描かれる青緑山水に焦点を当て、草創期の中国青緑山水の造形(図形様式)および空間の構成法を解析し、よって中国絵画の空間構成の内在的論理を探求し、東洋と西洋絵画の空間構成における差異を論証する。
 本稿の論証対象となる青緑山水図は、第217窟南壁の中央に位置する四角い「仏説法図」の西側の上半分に描かれる(図1)。山水風景の間には家屋や人物、樹木、動物などの添景もあるが、ここではそれらを検討の対象から外す。また、本稿では壁画の内容に関する検討も省くこととする。
 もし第217窟の青緑山水画の図形を簡略化し、色彩と人物と数か所の長方形題箋を除いて残された山々や土坡、川の輪郭を線で描き起こしたら(図2)、それが広大無辺の空間表現と前後に重畳する山々の整然とした布置に成功した、一つの完成度の高い山水画であることが一目瞭然となる。原図の作者がこの経変図を構想するにあたって考えた空間の構成法は、すでに物語を主体とする故事人物画の範疇を超えて、本格的な山水画の空間構成の特徴を備えていると言える。

  • 図2

    図2
    莫高窟第217窟南壁西側壁画の描き起こし図


 画面上端に水平に伸びる帯状の濃い黒褐色の色面は、壁画上端の境界をなし、画面の奥へと消えてゆく。まるで高い山頂に立って、遥か彼方まで連なっていく山々の様子を眺めるようなリアルな視覚効果がある。画面の左と右に流れる二本の川は、切り立った崖と谷間の「間」や「隔」を通し、また曲折する河道や湖を通して、画面の手前から深い奥へと秩序よく流れていく。河川や大地の横に広がる様子と、山や崖の縦に隆起する勢いとは強烈な対比を作り、横の左右に曲がりながら画面上端へ進んでいく濃い黒褐色の川の流れも、見る者に空から鳥瞰するような視覚的な効果を与えている。  ここでは、二次元平面に描かれた絵画が三次元的な奥行きを持つ空間、いわゆるイリュージョンを作るためには、西洋絵画のような線遠近法に頼るのではなく、独自の論理に基づいた方法に頼っている。すなわち、各図形の「間」あるいは「間隙」、「間隔」を利用して空間の奥行きを出す方法である。東洋では、「空間」とは連続な時間の流れの中に存在する物と物の間にできた「間」、「間隙」、「間隔」をさす。このような時間と空間を密接不可分とする方法論は、東洋人の生活や習慣、風俗のあらゆる面に浸透している。
 二次元絵画は平面的造形であるがゆえに、その中における三次元空間の表現がおのずと各平面の重なりを通して実現されるのである。図3では細部を省略し、山の緑色と川の黒色のみを残して、各山の配置と方向がはっきり見えるようにしている。図4では幾つかの大きな山の輪郭を描き起こし、記述の便宜上、それぞれをアルファベットで表記している。比較すれば分かるように、図4ではAからBとCを経てDに至るまでは、前方から後方へと奥行きの違う山々を重ねて配列することで、三次元的な空間作りを実現している。具体的に言うと、AからBは緩やかに空間の深みが増していき、BからCやDまでは、まず、やや右に行き、その後急激に左へ曲がり、さらにEとFが加わることで集合や緊張感が生み出され、AからBへの緩やかな進行と対比をなしている。一方、Gとその後方の山々は、中央に寄せる姿のEと呼応して、さらに画面に描かれていないGの右後ろの空間(地平線に向けて流れていく川も含む)を暗示している。いわゆる「広袤」や「開闊」といった空間感覚は、画家が本来実在しない空間の中で、方向や動きの異なる複数の山々を配列することで、見る者に与えた一種の総合的な認識上の効果である。中国南斉(479~502)の謝赫が提唱した画の「六法」に挙げられる「経営位置」とは、まさにこのような絵画の最も基本的な要素というべき空間構成を論じるものである。

  • 図3

    図3
    莫高窟第217窟南壁西側の色面図

  • 図4

    図4
    莫高窟第217窟南壁西側壁画の図解


東洋では、時間の「間」は一種の生命リズムである。「春生、夏長、秋収、冬蔵」という言葉が示すように、春に芽生え、夏に成長し、秋に収穫し、冬に貯蔵するという季節のリズムが存在する。ジョゼフ・ニーダムは「古代中国人にとって、時間とはある抽象的な数字や一連の均一な時刻ではない。時間は個々の具体的な季節に細分され、季節はまた更に細く分けられる」と述べている5。生命そのものに対する注目や、生命の過程に対する注目は、中国文化における「節」という概念の出現を促した。「節」は「間」と同じように、生命の過程の一段階、一間隙を表す。第217窟山水画の中に見られる山々の聚散や疎密の配置は、まさに時間と空間の「間」のリズムとハーモニーそのものを表している6
 中国絵画が図形や色彩を駆使して描いた大自然も、一つの生命ある有機体である。したがって、生命体を原点とする中国絵画の空間表現は、生命体の中の各「節」や「間」を構築することによって、山水の人文精神を表し、宇宙の生命リズムを洞察するのである。これこそ東洋絵画の空間表現の核心であり、青緑山水絵画の空間構成の出発点でもある。敦煌第217窟の青緑山水に見られる図形の「間」の配列と秩序は、画工たちの手によるものにもかかわらず、彼らの素朴で直観的な視覚・生活経験に由来し、その背後には深い哲学的思索が込められている。詩人たちが文字を借りて表現するように、画工たちは山水の姿を借りて宇宙や空間に対する自らの思索を表現したのである。詩などの文字による哲学的思索が出現する前に、絵画の図形による宇宙万物に対する直覚や洞察がなかったことは言えない。文字記録を残さなかった画工たちが作り上げた敦煌壁画について考察するのは、まさに形象経験のみを用いて絵画の宇宙を創造した彼らのオリジナル精神を探索するためである。なぜなら、そこには東洋人の形・色・空間に対する最も本源的で出発点となる思索や価値観が潜んでいるからである。ピカソがアフリカの彫刻から見出したものも、このような思索や価値観と同じようなものであろう。
 どのような視点から見ても、敦煌第217窟の経変図における空間表現はすでに単なる人物故事画の背景表現を超えて、本格的な青緑山水の空間構成を備えていることが明らかである。

第二章 紆余曲折と色層の重なり―山脈進行の空間構造

 前章では、敦煌第217窟の青緑山水図における大きな主要山塊の配列や秩序について、それらは互いに「間」を置いて配置することにより、二次元画面に「広袤な空間」を構築できたことを明らかにした。この章では、主要山塊の内部に目を向け、峰々や丘壑がどのように組織され、蜿蜒とうねる山脈が如何に表現され、EとDに挟まれる峡谷がどのようになだらかな土坡とつながったか、といった図形の配置や空間関係について検討する。以下では、図形自体、図形と図形の「間」(すなわち図形の上下左右の関係)、図形の重なりによる「間」(すなわち図形の前後重畳の関係)の三種類を順に論じていく。

1 図形自体

図形は岩絵具を塗布した厚みの違いにより、それ自体の内部に空間が作られている。周知のとおり、粒子状の岩絵具は暈すことが困難なため、幾層に塗り重ねる必要がある。薄塗りの場合は色が薄く、厚塗りの場合は色が濃くて鮮やかである。例えば、緑青を一回塗ったところと三四回塗り重ねたところを見比べれば、その差異がよく理解できる(図5)。次は複数の色を塗り重ねた場合だが、色の違いだけではなく、絵具の厚みの相違も図形の空間イメージに影響する。青緑山水における一般的な山石の彩色法といえば、まずは下層に代赭色か赤土色を広めに塗り、次にその上にやや面積の小さい緑青の層を塗り(幾層を塗る場合もある)、そして緑青の上にさらに面積の小さい群青の層を塗る(図6)。敦煌第217窟の図例では、灰色や黄色の地に代赭と緑青の重ね塗りをする例が多い。

  • 図5

    図5
    莫高窟第217窟の絵具塗布の厚薄対比

  • 図6

    図6
    莫高窟第249窟の重色構造


このような重ね塗りによる山石の色面は、塗られた岩絵具という材質の量の違いから、高低関係が形成されている。代赭色や赤土色を示すところは岩絵具の材質量が最も少なく、その上層の緑青色とさらに上層に敷かれる群青色を示すところは、重ね塗りの回数が多く、含まれている岩絵具の材質量も多い。材質量の積み重ねは、描かれた山石に軽重、厚薄、凹凸といった多様な質感を与え、図形の内部にも空間的な関係を創出している。このように、青緑山水における山石の最も基本な造形構成から見れば、図形内部に空間を構成する核心的な要素が岩絵具の材質だとわかる。
高くそびえる場所ができれば、相対的に低くくぼむ場所もできる。よって、間隔の「間」も生まれる。中国絵画の「図形」内部の空間構造において、岩絵具の塗られた「厚・薄」の関係が終始重要な役割を担っている。それは光や陰影に影響されず、岩絵具の材質に由来する一種の造形的思考である。紙本、絹本絵画における「三礬重染」と呼ばれる幾度に暈しを行う手法であれ、工筆画や工筆重彩画における「凹凸」を表す手法や写意人物画における肉身、顔貌の処理であれ、いずれもこのような思考に基づくものである。このような「厚・薄」の差から「間」を生み出す空間構築法は脈々と受け継がれていき、後世の中国絵画の図形内部の構造に深遠な影響を与えた、青緑山水の重要な造形手法である。

2 図形の重なりによる「間」

青緑山水では、図形に積み重ねられた彩色層の違いからも「間」が生まれて、そして図形の空間構造に影響を及ぼすのである。図7-1、図7-2に示されるように、代赭と緑青の二色は単なる色の重なりのみならず、上層の緑青の塗られた範囲と下層の代赭の塗られた範囲の差が作った「間」(代赭色を呈する)も、画面における空間の前後関係、つまり奥行きを作り出している。山々はこのような「間」の進行にしたがってうねりながら上昇し、奥行きを深めていき、やがて前後や遠近の視覚効果を画面にもたらした。また、図形を重ねてできた「間」の大きさが、図形と図形の間の距離も暗示している。「間」が大きければ大きいほど、前後の距離が遠くなる。これこそ「互いに重なるものを用いて作った連続的系列を通して空間を獲得し」、「一段一段登っていく階段のように、見る者の視線を一番手前から最奥へと導いていく」最良の方法である。このように、図形の重なりによる「間」や彩色層の重なりによる「間」は、いずれも青緑山水の岩絵具材質の表現をベースにした画面空間の構築である。

  • 図7-1

    図7-1
    色層の重なり

  • 図7-2

    図7-2
    色層の重なり


図7-1、図7-2に対する分析から明らかなように、山脈のうねりながら奥へと進行する様子を表す際に、彩色の重なりによる個々の「間」が異なる位置や節点にあり、このような「間」の構造こそ同じ物形に空間の奥への進行や延長を促し、物形に空間的関係を与えたものである。すなわち物形は「間」の存在によって、それ自身の前後位置が生まれて、また画面空間との関連付けができたのである。このような物象図形が互いに「間」を置く、つまり「間」の空間意識の出現から、意識して積極的に「間」を応用して物と物の前後関係を表すことへの移行は、東洋絵画独自の空間表現理論および造形語彙の成熟を示すものである。これをもって二次元平面で造形する中国絵画が、平面化を保ちつつも、すでに三次元空間の創造に必要な基本構造を得ていると言える。

  • 図8

    図8
    莫高窟第217窟描き起こし図

  • 図9

    図9
    「日月山水図屏風」部分
    大阪天野山金剛寺蔵 室町時代(15世紀)


描き起こし図中の赤い矢印(図8)は、各々の山塊の伸びる方向を示している。個々の山塊を重ねると、互いの間にできている「間」の大きさにより、山脈が左に曲がったり右に曲がったりして連綿と上端に走っていく視覚効果が得られる。すなわち、平面的な図形を積み重ねることから、前後関係や奥行きといった三次元空間のイリュージョンが創出されたのである。このような空間構築法は、唐時代に日本に伝えられ、やがて「唐絵」をベースに展開された「大和絵」という日本独自の絵画様式につながっていく。大阪金剛寺所蔵の「日月山水図屏風」(図9)がまさにその好例の一つである。日本では、平面図形を重ねてできる「間」のもたらす空間効果は、広く日本画の造形や空間表現に活用されており、このような唐絵に基づく空間構築法は今日まで受け継がれてきている。
中国絵画の空間表現法は青緑山水の誕生後に発展し、次第に成熟を迎えた。これは二次元平面絵画において大きな意義を持つ出来事であった。これで東洋絵画は、語彙の形態や意味の説明から語彙を組み合わせる文法、さらに空間配列の秩序や空間文脈の構造といった文法にいたるまですべて成熟し、二次元平面絵画の様式体系がほぼ出来上がっているのである8

3 図形の重なりと時空転換

図形の重なりは、また時空を転換するための手段の一つでもある。岩彩絵画の彩色面は、その材質つまり岩絵具の特性の制約から、平面的で比較的簡略な図形となる。一つの図形がもう一つの図形に部分的に重ねられて遮られると、重畳とした奥行きのある三次元空間的な効果が生まれる。これが岩彩絵画における図形の重なりによる空間語義の変化の根本たるところである。「重なりから生まれた立体効果は、往々にして本当の物理的距離から生まれた立体効果よりも強烈である。」9敦煌莫高窟第217窟の山水図における空間転換―図形と図形との重なり・遮断、空間の奥への進行、時空の転換―も、このような手法を用いた(図10、図11)。
図11に注目すると、画面中にDとEとの間にはかなり強い緊張感が漂っているように見える。しかし実際は、Dの最左側は手前の山の麓に接し、Eの最右側はさらに手前にあり、両者の実際の距離はそれほど近くない。この緊張関係は、絵の作者が二次元平面において作ったものである。それによって、山脈の左上へ伸びる勢いの力が最大限に発揮されている。また、この部分図には、水墨山水画の成熟期に確立された「三遠法」の中の「深遠」構造も見て取れる。すなわち、DとEに挟まれる狭い間隔から、それらの背後に広がるFの山々や麓に沿って蜿蜒として流れていく河川が窺え、見る者の視線は画面の奥に導かれていくのである。

  • 図10

    図10
    莫高窟第217窟山水の部分図

  • 図11

    図11
    図形の重なりと空間転換


莫高窟第217窟山水図(図1)の右上隅にも、同じような「深遠」表現による空間が表されている(図12、図13)。谷を隔てて対峙するCとG、その間に点在する騎馬人物の添景、そして両者の奥に広がる空間、これらの描写は桃源郷のような俗世間を離れた理想郷の境地を作り上げている。ここでは、同様に図形の重なり表現や空間転換の手法が用いられた。このように、中国山水画の空間構築は青緑山水の盛行する時代にすでに発達し、形式化の傾向すら現れていた。なお、このような「深遠」の空間表現は敦煌の他の石窟壁画からも確認でき、唐時代に日本に渡った正倉院宝物からも見られる。

  • 図12

    図12
    莫高窟第217窟山水の部分図

  • 図13

    図13
    莫高窟第217窟山水の部分図の図解


図形の重なり表現が空間構造を示す基本手法となることは、同時に図形・材質・彩色といった要素の空間構築における自己実現でもなる。意識的に図形の重なり手法を応用して三次元空間の奥行きを創出するのは、中国岩彩絵画の空間構築の基本手法である。そのなか、青緑山水は比較的自由で広大な大画面のなかで制作できることから、典型性を最も備えると言える。岩彩絵画における人物の重なり、人物と器物の重なり、山石の重なりなどの表現は、いずれも全面の図形と後方の部分的に遮られた図形とを重ねることで、各図形の占める空間位置を示し、前後や違う空間の関係を暗示するのである10

三 近樹は葉を鉤勒し、遠樹は点描するのみ―異なる空間における物形の変形表現
中国の古代画論には「遠人に目なく、遠樹に枝なく、遠山に石なくして、隠隠として眉の如し。遠水に波なくして、高きこと雲にひとし」(王維「山水論」)という理論がある。例えば、松の描き方として、近景の場合は松葉をはっきりと扇形か車輪形に描写し、中景の場合は長点で描き、遠景になると単なる縦点で表すようになる。このような異なる形を用いて、異なる空間位置にある物に対する見る者の視覚感受を表現する手法は、まさに東洋式の「観物取象」(何かの物を見て、そこに何らかの人間のあり様、すなわち「象」を感得し認識すること)の観念を示すものである。樹木の変形を通して空間における樹木の位置の相違を暗示する手法は、中国山水画が成熟期に達したことのシンボルの一つでもある。
莫高窟題217窟青緑山水図の樹木表現は、すでに上記のような樹木の変形で空間位置を示す手法を応用しており、近景・中景・遠景にそれぞれ異なる描き方で樹木を描き、抽象的で記号化されたところまで現れている(図14、図16)。

  • 図14

    図14
    遠景の樹木

  • 図15

    図15
    中景の樹木

  • 図16

    図16
    近景の樹木

  • 図17

    図17
    遠山にある蔓草


近景の樹木は、細い線で輪郭を描いてその中を彩色するという「鉤勒法」、あるいは下地を塗らずに空白に残すという「画底留白法」を駆使して、幹や主要な枝を描いており、また樹上の果実や葉、白い点による花も描いている。崖に絡まる藤や蔓についても、遠近における形にそれぞれ差をつけて描写している。中景や遠景における崖上の蔓草が「个」字の形で表す(図18)のに対し、近景における葉は輪郭を描いたり点描したりして多様である。あた、近景の土坡や石にある葉の描き方には点も鉤勒の線も見られ、水墨山水画に見られる「介」字の形の葉によく似通っている。

  • 図18

    図18
    中景と近景の山上の蔓草

  • 図19

    図19
    近景の坡石上の点描による葉

  • 図20

    図20
    莫高窟第217窟の山水表現


水景の表現も近景と遠景でそれぞれ形が違い、「遠水に波なし」の理論に合致している。莫高窟第217窟の部分図を見れば分かるように、近景の土坡や樹木のすぐ後ろにある水は線描で流れや波を表し、一方、さらに後ろにある水はほぼ黒色のべた塗りで表している(図20)。すなわち、遠近距離の違う水景は異なる手法によって描かれ、同じ「水景」であっても、それの位置する空間が異なれば造形や彩色法の選択も違うのである。
同じく盛唐期に造営された莫高窟第172窟北壁「観無量寿経変図」壁画の右上にある山水図の水景に関しても、近景では線描で波を描き、中景と遠景では黒色のべた塗りで表している。同窟東壁北側「普賢変」の山水部分における「黒水」の表現がもっと典型的で、「大青緑山水」の雰囲気を備えている。河川の水を黒色で表現するのは青緑山水の一特徴といえるが、これを検討する研究論文は未だなく、更なる研究に値する課題である。なお、ここでは展開しないが、「遠水に波なし」の理論はもしかすると青緑山水の河川表現を描述した理論かもしれない。
また、近景における「下地を塗らずに白く残す」という白い樹木の表現も、興味深い課題である。白い樹木の表現はだいたい濃い色の建築を背景とするところに見られる。その精確で生き生きとした造形は、現代画家の観察や枝葉の取捨選択に近く、ある程度の形式化傾向も認められる。とはいえ、塗られずに空白に残されている樹木の表現はやはり未完成のように感じさせる。その後の再制作の予定があるかどうかは、検討を待つところである。
下地を空白のままにしておくという「留白法」で図形を表現するのは、そもそも岩彩絵画の素材に制約される独特な画法であり、かなり早い時期に岩彩壁画に用いられていた。参考として、莫高窟第405窟壁画「仏説法図」(図21)にも幹が塗られていない樹木があり、未完成の状態を示している。
  • 図21

    図21
    仏説法図 莫高窟第405窟 隋


莫高窟第217窟に戻ると、近景の山石の造形はやや色と形が分離しており、稚拙な表現のように見えるが、実はそれがすでに山水画の山石の内部構造を呈している。少し不明瞭ではあるものの、現存している岩絵具の塗り面から、このような内部構造の存在を見て取れる(図22、図23)。

  • 図22

    図22
    莫高窟第217窟近景の山石構造

  • 図23

    図23
    莫高窟第217窟近景の山石構造の解析


以上のように、本稿では莫高窟第217窟壁画の山水図から選出した図例を挙げ、盛唐期の青緑山水が、樹木・蔓草・河川・山石等の造形を表現する際に、それらをそれぞれ違う空間場面と対応させることを説明した。画面中の空間構築は画面に描かれたすべての物景と関わっており、画工たちの一時の興に乗じて任意的に描出したものではない。下地を空白に残すという樹幹の表現や、色面の筆跡をわずかに呈している山石の構造、鉤勒か点描かといった枝葉の種類に応じる異なる表現などから、当時の壁画制作では工房を率いる画師が画工たちに正確な粉本を提供していただけではなく、制作プロセスや工程も規定されており、青緑山水画の幾つかの様式化特徴もすでに形成している、といったことが分かる。
 物と物との「間」(空白を残す=「留白」)が持つ空間的意味を応用するというのは、東洋人の空間表現に対する独自の理解を反映するものである。間隔、間隙、間息といった見る者の視覚時間が一時停止して転換する各瞬間や節点には、それぞれ物形表現が対応しており、空間との関係もできている。山、石、林、木、河川、人物、動物などの存在から、我々はある場面から空間全体の実際の存在を感知できるのである。

まとめ 図形の「間」および青緑山水空間構造の中国絵画史上における意義

 敦煌莫高窟第217窟南壁経変図の一部である青緑山水に対する分析を通して、次のようなことが明らかとなった。色料を多層に塗布することでできた「重厚感」と、色料の塗られた層が少なく色調が淡いことからできた「間隙」・「余白」とが、中国青緑山水の造形を構成している。それと同時に、図形と図形との「間」および「重なり」により生み出された前後左右という空間意味が、中国青緑山水の空間を構成し、今日まで影響し続けてきている。「間」の「隔てる」、「遮断する」といった意味は、二つの違う図形を区別するのみならず、この二つの図形の空間における位置を暗示する役割も果たしている。ルドルフ・アルンハイムは『美術と視覚:美と創造の心理学』(『Art and Visual Perception』)第五章「空間」第八節「重なり表現を通して空間を獲得する」において、中国絵画の空間構造について次のように論じている。「重なり表現を通して空間を創出する手法は、かなり早い段階から中国の風景画独自の手法となっている。中国絵画では、たとえ山と山、山と雲であっても、それらの奥行き空間における相対的な位置は、図形を重ねる方法で作られている。山々の形は往々にして犬の牙が交錯しあうような切り立った断崖絶壁、あるいは積み上げられたような段階状の骨組みに描かれている。このようにして、正面から見る際には奥行きが違う各平面の重なりを通して一つの全体が構成される。この全体は、複雑な彎曲度を具える堅固物のように見える」11
 意識的に画面の中で「間」や「間隔」を配置することが、実はすなわち青緑山水の空間構成である。いわゆる「経営位置」とは、現実にある対象物の形や空間を模倣するのではなく、図形と空間を創造することである。画面における各対象物の位置は、図形と図形の周りの空間によって決められている。形と形の対峙・緊張・舒緩・平坦といった関係や、画面構図のバランスとリズム感は、主として画家による「間」や「間隔」の意識的な配置から生み出されたものである。以上が敦煌莫高窟第217窟壁画から得られる青緑山水の造形、空間構成に関する知見であり、また同壁画からは、中国絵画の空間表現がいかに発生し、どのような芸術様式によって完成されたかについての知見も得られた。
 残されている課題としては、敦煌莫高窟第172窟の青緑山水壁画における「黒水」の表現が挙げられる。さらに探究の域を広げて、敦煌壁画の青緑山水と北宋時代の水墨山水との比較研究も試みれば、造形や空間表現における伝承関係が、この両者の間に密接に存在していることに驚かされるであろう。
 近年では、中国絵画伝統の源泉がどこに求められるかという問題に注目する学者の研究が現れている。山水画に関して言えば、「北宗、南宗を問わず、両者はともに東部地域にあるようで、西部地域とはあまり関係しない。文人画が始めた絵画史は、中国東部から南部までの絵画史であり、西部に代表される広大で深遠な歴史的淵源を排除したものである。」12敦煌壁画の各種類の芸術形態に関する考察研究が進展するにつれて、間違いなくその成果は中国美術史学の新たな分野を開拓し、今日中国美術の直面する「未完成の現代性」の局面に、伝統の文脈に基づく資源と動力を提供するのである。

卓民 2018年7月18日於東京
1
張法『中国美学史』、上海人民出版社2000年、第37~38頁。
2
青緑山水は山水画の一種である。鉱物顔料の群青や緑青を主要な色とする山水画であり、「大青緑」と「小青緑」に大別される。前者は線描による輪郭線の描き起こしが多く、皴による表現が少なく、濃彩に着色されて装飾性が豊かである。後者は水墨淡彩をベースに青や緑の色を淡く施す。清時代の張庚は「画は絵事なり、古来は色を設けざること無し、且つ青緑多し」と述べ、元時代の湯垕は「李思訓の著色山水は、金碧を用ひて輝映し、自ら一家の法を為す」と述べる。南宋時代には「二趙」(趙伯駒、趙伯驌)が青緑山水を良く描けることで知られる。中国の山水画はさきに着色山水が登場し、その後に水墨山水が現れる。着色山水の中にはさきに濃彩画が出現し、のちに淡彩表現が現れる。(『中国美術辞典』、上海辞書出版社1987年、第6頁。)
3
筆者によれば、敦煌蔵経洞から発見された絹本絵画のうち、仏教を題材とする一部の絵画にも空間場面の表現が確認される。それらは芸術表現や制作処理において、壁画と関係しつつ、壁画と違う表現をそなえている。ある程度の成熟したレベルには達していないものの、一つの絹や麻、紙を支持体とし、墨の暈しによる下地をつくり、植物染料と鉱物顔料を交互に使用する絵画体系として、持ち運びやすい巻物類(幡、㡧、旒といった仏事に使用される道具など)には合う絵画形態である。当時の主流ではない絵画の一つとして、これらの絹本絵画は、後世の紙本絹本青緑山水すなわち「小青緑山水」と称せる絵画様式の発端と見なせるかどうかは、今後さらなる研究が必要である。
4
卓民『中国岩彩絵画概論』、高等教育出版社2016年、第207~218頁。
5
ジョゼフ・ニーダム『中国科学思想史』第2巻「科学思想史」、科学出版社と上海古籍出版社の共同出版1990年、第313頁。
6
「時間」と「空間」という二つの漢語は、日本の学者が英文の「time」と「space」の訳語として創造した単語である。漢字学の意義範疇内に属するものとして、時間・空間に対する近代的な表述である。「時」は日常生活における共通的な概念、「空」は仏教に由来する用語。ここで重要なのは「間」という一字である。日本語では「ma」と訓読し、時間と空間の両方の中に存在する。『説文解字』には「間は、隙なり。門に从ひ、月に从ふ。古文は閒。徐鍇曰く、『夫れ門は夜に閉まり、閉まると月光が見え、是れ閒隙有るなり』と」とある。「時」の間隙と「空」の間隙に関して、時間と空間が同じく「間」の一字を使用しているのは興味深い。(潘力「論日本美術的抽象性及其対西方的影響」、『清華美術』第11期、第74頁参照。)
7
注5参照。
8
注4参照。
9
ルドルフ・アルンハイム『芸術と視知覚』、中国社会科学出版社1984年、第335頁。
10
注4参照。
11
注9参照。
12
郝青松「西部的歴史審美和当代意義」、『美術』雑誌2016年第5期。
一覧に戻る 回到索引